広島から一番近い田舎
広島中心部からJRで40分、風景がこれまでの町から一変した、そこに狩留家があります。蛍と山椒魚が住み、自然豊かなこの地は、中心を流れる三篠川とともに、歴史を刻んできました。
川には多くの水鳥がゆっくりと過ごし、道行く人にほのぼのとした景色をくれます。
広島からはJR芸備線で狩留家まで、もしくは県道37号線にて北上(三次方面)すると、道脇に看板があります。
「村の名は、どういう理由でこのように呼ばれたのかは分かりません」
古文書によれば、
「福田村の飛郷であったが、いつの頃からか両村に分かれたのではないでしょうか。酒造株の事に関する公儀へ提出した文書には、福田村のうち狩留家町と書かれており、昔は一村であったとみえます。
狩留家は人家が軒を並べ、町を形成していますが、町役銀を上納していた様子はなありません。毎月市が立っていたという申し伝えもなく、中古より牛馬市の願いをして許されましたが、牛馬市により町が形成されたとも言い難いです。
一説には、狩留家姫命(かるがひめのみこと)が生まれた地で、湯坂はその産湯があった坂といわれています。狩留家姫命は出雲国に鎮座していると伝わりがありますが、いつの時代のことか、また出雲国の何処に鎮座されているかも知っている人はいません。これらの由来が当たっているかも分かりませんが、狩留家という文字を書く根拠はありません」
との記載があります。
「狩留家」という地名の由来
日本地名大辞典や広島県市町村合併史によれば『昔、皇室の領地で稲置狩倉が設けられたことによる』とあります。稲置とは郷程度の皇室領を管理する職名であり、狩倉はご領家の荘園領主が鹿皮や脯などの安定確保を図るため、領地内に設けた狩場のことであります。しかもこの狩場は山中ではなく比較的平野部を囲って作られ、御領家から下向した「御狩者」とか「狩使」と呼ばれる「もののふ」たちによって、弓馬による戦技訓練をも兼ねた狩猟が行われていたとのことです。
狩倉には、獲物を調理する「厨」が設けられており、宿泊設備があったという。このことが「狩留家」の地名の由来と書かれています。
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